「千里中央」の歴史(その10) | 豊中市 千里中央駅直結の心療内科「杉浦こころのクリニック」

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「千里中央」の歴史(その10)

2016年10月25日 

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の10回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】“証言”の一部をかいつまんでもう少し紹介してみましょう。
【峠の茶屋】
桜並木ですっかり有名の千里中央筋は、以前から浪速と西国街道・勝尾寺を結ぶ道で、当時としてこのあたり唯一の幹線でした。
「西角瀬」(現在の新千里北町2丁目)の北、現在の蓮間配水場付近はこのあたりの最高峰で、大きな一本松があり、その下に峠の茶屋がありました。特に箕面の護摩の日には、ここでとれるモモやハタンキョウなどが並べられたこともあったといいます。
峠の下(北側)は西国街道。参勤交代の大名行列のにぎわいも、きっとこの茶屋からながめられたのでしょう。
【真言密教の坊と観音】
北千里駅南一帯(古江台4丁目と藤白台3丁目)は、昔「千手」と呼ばれていました。真言宗円照寺(山田東三丁目)の奥の院が、現在の千里北公園はすま池の周辺にまで広がっていたが、宿坊には「千手観音」(円照寺のご本尊)がまつられていたことから、そのまま地名になったといいます。
奥の院は現在の佐竹台4丁目にもあったようで、小字「入学(にんがく・人学の間違いかもしれない?)」が示すように、僧侶の学問の場だったと伝えています。
奥の院は応仁の乱(1467年)で焼かれるが、後に、池の底からやけどをした観音さまが現れ、水ききんを救ったという伝説も残されています。
【津雲の尼塚】
津雲台1・3丁目にかけての旧小字は「尼塚」。現在の新千里病院あたりには行基が建立したという紫雲山永安寺があったからといいます。
後に尼寺となったが、織田信長による戦火で焼失したため、山田東3丁目に移ったといいます。鳥獣の天井画(府文化財)で名高い紫雲寺の前身です。
この尼塚から津雲と呼ばれた山(津雲台3丁目・5丁目)は、戦前は9ホールのゴルフ場で、キャディーのアルバイトをした農民もいたというから、山田や上新田の人はハイカラでした。
■八つの城と戦国時代
戦国時代、千里千里丘陵)には八つの城がありました。吹田城、山田城、佐井寺城、郡山城、刀根山城、原田城、粟生城、三宅城です。
城といっても、山城あるいは砦(とりで)のようなものだったらしいが、摂津は京の都に近い要所だけにこれらの城も激動に揺れました。
特に歴史的に有名なのは刀根山城。現在の刀根山御坊にあった城で、北摂の守護大名荒木村重(むらしげ)を滅ぼそうとした織田信長軍の前線基地になったところです。
村重は信長に引き立てられた男だが、信長が石山本願寺攻めに11年かけているとき、敵毛利軍に手を焼くのは、村重が内通を計っているからだと疑い、伊丹の有岡城(村重が城主)を攻撃したといわれています。天正7年のことです。
刀根山城にかけつけたのは高槻城主高山右近ら。結果は村重が逃走、残った家族と一族郎党の妻子らが極刑ざん殺されたという悲劇に終わるが、千里(千里丘陵)の多くのお寺も、信長によってこのころ焼かれています。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。

 

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