「千里中央」の歴史(その7) | 豊中市 千里中央駅直結の心療内科「杉浦こころのクリニック」

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「千里中央」の歴史(その7)

2016年10月21日 

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の7回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】■行き詰まった公営住宅の建設
各所に団地が生まれ、「団地族」という言葉が流行したのはこの頃です。民間の賃貸住宅建設もようやくエンジンがかかってきました。
しかし、問題がでてきました。郊外では、古くから住む住人と、新住人との交流の難しさが浮き彫りになってきました。
また、せっかく公営住宅が建っても商業施設や教育施設が思うように整備されないことから、生活は不便だし、子供の教育にも支障が出てきました。
さらに問題は、民間の無秩序な開発もあって地価が急騰したこと。「できるだけ安く住宅を提供する」ことをモットーとする府営住宅は次第に都市郊外に押しやられ、求める「近くて安い土地」選びはそろそろ限界に達していました。
有力候補にのぼった千里丘陵
「これからの住宅対策は、これまでの団地主義では解決できない。都市として整備され健康で文化的な生活を享受できるまちづくりをめざさなくては…」
大阪府の幹部が発想を転換し、ひそかに新しい形の住宅都市(ニュータウン)の検討に入ったのは昭和31年からでした。
まず最初は適地調査でした。調査は広範囲にわたったが、適地として候補にのぼったのは生駒山麓、枚方地区、泉南地区、羽曳野地区、そして泉北地区と千里丘陵でした。
いずれも2000ha(約600万坪)クラスで、住宅都市を建設するのにふさわしい土地でした。
この動きを鋭敏に察した該当の自治体が、絶好のチャンスとばかりに盛んに誘致合戦を繰り広げました。そんな中で大きくクローズアップされるようになったのが千里丘陵でした。
千里丘陵に反対の意見もありました。「大阪は淀川をはさんで南北に分けられるが、北の方がより発展度が高い。府下全体の均衡ある発展をはかるためには、開発の遅れている南部または東部を選ぶべきではないか」というのでした。
■「待った」がかかった昭和31年末
いずれも水と交通の便に難があったが、激しい南北論争の末、最終的に候補を絞られたのはやはり千里丘陵でした。
大阪市の中心部からおよそ10キロと距離が頃合いであること、国鉄(現JR)や阪急の沿線に近いこと。さらに、将来は高速道路(名神や中央環状線・中国自動車道のこと)が計画されているなど、近未来の将来性を考えると最も適地でした。
こうして、府の最高首脳会議に開発計画が持ち込まれたのは、昭和31年秋のことでした。
しかし、当時の赤間知事は、首を縦に振らなかったのです。
実は、住宅政策のほかに、経済政策として大工業地帯の建設計画も始まっていたからです。現在の堺泉北臨海工業地帯です。結果的には、起工式が千里ニュータウン(昭和36年10月)より約1年(昭和37年8月)遅れることになるが、「経済が先」の方向ですすんでいたからでした。
どちらも大阪府始まって以来の資金を必要とする大事業。大阪府にとって二大事業の同時進行はやはり難しいです。
それにもまして、日本ではまだ前例のないニュータウン建設。先進国の調査もそんなにできていない段階で「果たして府の役人で成し遂げられるのか」というのが赤間知事の本音であったようです。
かくして新年度(昭和32年度)当初予算では「千里は一応見送り」となりました。
しかし、建設関係担当者の「千里ニュータウン開発の思い」は増すばかり。開発範囲を大中小の三通りを作成するなど、調査研究が続き、その年の9月府会でついに初めて予算(調査費)を獲得、千里丘陵の情況調査と地形の原図づくりがはじまったのでした。
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。

 

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