「千里中央」の歴史(その5) | 豊中市 千里中央駅直結の心療内科「杉浦こころのクリニック」

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「千里中央」の歴史(その5)

2016年10月19日 

千里中央大阪府 豊中市・千里ニュータウン)、心療内科 精神科「医療法人秀明会 杉浦こころのクリニック」の杉浦です。
今回は『「千里中央」の歴史』の5回目です。引き続き、千里中央について詳しく触れたいと思います。
【続き→】室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録があります。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章があります。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の揖の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称しました。遊びとは遊女です。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしいです。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしています。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるといいます。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれています。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいます。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過しています。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地でありました。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めました。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築きました。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できます。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村がありました。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生しました。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領地となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熙の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗巴に移り、享保8年(西暦1723年)5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納しました。
明治4年(西暦1871年)7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となりました。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示しています。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年(西暦1881年)内務省が編集した「群村誌」や明治13年(西暦1880年)「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、水菜、蕪、4月菜、蕃俶等の作物がしるされています。
(「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
以上、千里中央駅直結・千里セルシー3階・豊中市、心療内科「杉浦こころのクリニック」の杉浦でした。

 

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